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毛利元就!!中国地方、平定の男

毛利元就(モウリ モトナリ)

元就が生まれる頃の毛利家は、安芸(今の広島県西部)の、一部の小勢力に過ぎなかった。

西には大内氏、東には尼子氏という巨大勢力に挟まれていた。その時々によって、大内氏側に従属したり、尼子氏側に従属したりと、少し判断を誤まれば、滅亡するという危機に、常に晒されていた。

1540年、ついに事件は起きた。30000人の大軍を率いて尼子晴久(アマゴ ハルヒサ)が侵攻してきたのだ。

元就は、居城である、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に、3000人の兵と共に篭城。

時より500人程の兵を出撃させて、尼子勢と小競り合いをしながら、大内氏の援軍を待った。そうこうしているうちに、数ヶ月経ち、寒さと疲れで尼子勢の士気は、低下していた。

そこにタイミング良く、大内氏の援軍、陶晴堅(スエ ハルカタ)率いる10000人がやってきた。元就はこの時、晴堅の事を心強く思った事だろう。

やがて年が明け、極限に疲弊した尼子軍は、撤退。それに対し、大内&毛利連合軍は、奇襲攻撃に打って出た。これによって尼子軍の死傷者は数知れず。

毛利家は、この戦いによって、安芸の小勢力を集結する。

その後、また大事件が起こる。大内氏の当主、義隆が殺された。その殺した犯人が、あの陶晴堅である。いわゆる下克上(クーデター)である。

大内家中が揺れに揺れた。その隙に、元就は旧大内領を自分のモノにしていく。無論、陶晴堅が怒りを露わにするのは当然だ。

そしてついに、1555年、厳島の戦いが勃発した。

陶晴堅軍25000人が動き出す。しかし、元就の策略に引っかかり、厳島(宮島)に誘い出された。

毛利元就軍4000人は、数の上では劣勢。しかし、ある夜、豪雨となった。「これは好機。」と、激しい豪雨の中、船で回り込んで、再度、島に上陸。山の上に登った毛利軍。

夜が明けて、山を見下ろした先には、なんと、陶晴堅軍25000人が、休息しているではないか。

毛利軍は、山を駆け下り、奇襲攻撃を仕掛けた。あらかじめ、寝回しし、味方につけておいた村上水軍の活躍もあって、陶軍は壊滅。陶晴堅も自刃した。厳島神社が血で真っ赤に染まったという。5000人近くの戦死者が出るという壮絶な戦いだった。

これによって、毛利氏は、中国地方の巨大勢力となった。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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