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織田信長は、元祖ビジュアル系である!!

皆さんは、「城」と聞いて、どのようなモノを思い浮かべますか?

例えばこのような建物

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大体の方は、こういった、天守を思い浮かべると思います。

しかし、戦国期の城は、こんな建物は、存在しなかったのです。

では、どのようなモノであったか。。。。

まず、曲輪(くるわ)があった。曲輪というのは、城内の区画の事(本丸・二の丸・三の丸といったように分かれている)。
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そこには、堀、土塁、石塁など、敵から身を守る為のモノがあった。


堀というのは、地面を掘ったものである。

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土塁というのは土を盛ったものである。

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石塁というのは石を組んだものである。

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これ以外に、兵糧(兵士の食料)を蓄える場所があったり、井戸があったり、櫓(やぐら)があったり、ちょっとした、屋敷があったり。(そのお粗末な屋敷を天守と呼ぶ事もあるが。。。)


あるのは、ただ、それだけである。


例えば、土を盛って、周囲を囲んだだけで、中に天守という建物が無くても、城と呼ぶのである。
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これが、実際の戦国時代の城である。


なぜかというと、元々、城というのは、「守るため」にあるからだ。

しかし、織田信長は、初めて、城という概念をくつがえした。

「守るための城」から、「見せるための城」を日本で始めて建てたのである。

それが、安土城だ。


信長は、自分の権力を誇示するために、「見せるための城」を作ったのだ。


つまり、信長は、ビジュアル面を始めて意識した、戦国大名と言ってもよいのではなかろうか。

城だけではなく、ファッションも、人とは違った。

信長は、天正期には、赤いビロードのマントをはおり、南蛮の鎧をつけていた(ポルトガル製と思われる)。
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(上の写真は、レプリカではあるが、信長はこのような格好をしていたと思われる。)


後に、伊達政宗や、前田慶次朗といった「派手好き」が出てくるが、信長という人物がビジュアル系先駆者といってもよいのではなかろうか。


そんな信長の「見せるための城」の意志を受け継ぎ、秀吉が、天下の象徴とも言うべく、大阪城を建てた。この城は、「見せるためと、守るため」両方を兼ね備えた城だった。

この頃、にわかに「見せるための城」が増え始めた。

しかし、秀吉が没し、秀頼の時代になると、家康によって、豊臣家は、滅ぼされた。(これを大阪の役という)。


そして、家康は、「一国一城令」を出し、3000城あった城を170城程に減らした。(実は、天守の無い城も合わせると25000城程あった)


こうして考えると、皆さんが見ている「城」の姿は、江戸時代に入ってから現在に作られたのモノばかりとなる。

たしかに、犬山城は、1537年に築城され、戦国期ではあるが、おそらく、この頃は、天守は、存在しなかったのではなかろうか。あっても、今よりずっと小さいものだった。それが、時代と共に改修が繰り返され、今のような姿になったと考えるのが自然である。

現在の犬山城

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つまり、今見ている綺麗で豪華な城は、信長が発端である。そして秀吉が後を継ぎ、家康がその又後を継いだ。

家康は、江戸幕府1代将軍となり、子、孫と、ず~っと続き、15代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)まで続いた。

そして、大政奉還し、明治時代に、廃城令が出され城はさらに、3分の1に減らされた。大正が終わり、昭和となり、戦火によって、沢山の城は、焼失し、現在では、非常に貴重な文化遺産となっている。

今、奇跡的に残っている城をこれからも大切にしていってほしいものだ。
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本能寺の変!!なぜ起きた?!


明智光秀は、「本能寺の変」をなぜ起こしたのだろう。。。


「天下への野望?」それとも、「突発的行動?」それとも、「恨み?」それとも、「家康が影で操った?」「秀吉が操った?」

実際に、本能寺の変については、謎が多く、真相は分かってないという所が、また、おもしろい。



私自身の主張は、光秀の恨みによる「変」(クーデター)ではないかと思う。



第一に考えられるのは、森蘭丸(もりらんまる)の存在だ。

彼(蘭丸)は、知っての通り、信長に最も寵愛を受けた人物であり、男色(男でありながら性の対象)にもなったぐらいの美男子だった。

信長に謁見する際には、彼に「お目通り」を願わなければいけなかったぐらいの人物。

その人物に、(光秀の)顔を扇子で叩かれるといった事もあったり、信長に「何が欲しい?」と聞かれた蘭丸が、「(光秀の)領土が欲しいです。」と言ったり、ライバル意識があったのかもしれない。


それと、二つ目は、光秀が八上城を攻城した際に、敵に降伏するよう求めた。

光秀は、(八上城の)城主を投降させる際、光秀の母親を人質にだした(「城主の命の保障」という信憑性を上げるため)。


しかし、信長は城主を殺してしまった。

これにより、光秀のお母さんも、磔(はりつけ)にされて殺された。

半ば、信長が殺したようなものだ。母親を見殺しにされた光秀が、信長を恨んでないはずがない。


三つ目は、武田攻めの時に、光秀が信長に「勝利は目前です。我々も苦労した甲斐がありました。」と言うと、信長は「お前ごときが、何を言っとるんじゃ。」と言ったらしい。

信長は、「苦労した。」という言葉を皮肉に受け取ったかもしれない。

光秀も、皮肉っぽい人間だったかもしれない。


これらの理由によって、私は、(光秀の)信長に対しての「恨み」ではないかと思う。

テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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